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ラ・ルーチェ マネージャー 小西優司

1話 2007/05/01(Thu) 12:00  掲載
さほど広くない店内には、小さな音量でJazzがかかっていた。
金曜日の夜だというのにテーブルはちらほら空いていて、とても繁盛している店に
は見えなかった。とはいえ僕は僕で、たった独りの週末を寂れたバーのスツールに腰
掛けて過ごしていたのだから、店についてとやかく言う資格はないのだけれど。


目の前に置かれた細長いフルート型シャンパン・グラスの中の液体は無数の気泡を液
体の表面へ向かって絶え間無く送り続けていた。
誰かがリクエストしたのだろうか、気が付くとBGMはヘレン・メリルに変わって
いた。甘くて切ない「ニューヨークの溜息」は今の僕の気持ちにぴったり当てはまっ
ている気がした。
「素敵な曲ね」
僕から一つ置いて右隣の席に座っている女の子が、誰に話しかけるでもなくそう呟
いた。僕は何の気無しに彼女を見た。緩くカールした美しい栗色の髪。細く長い指。
話し方にほんの少し西洋人特有のなまりがあった。彼女は小さなショット・グラスで
ウィスキーを飲んでいるようだった。
「ねぇ、素敵な曲ね」
彼女は今度ははっきりと僕の方を見た。大きな碧い瞳、小麦色の肌。そして、ニッ
コリと穏やかに僕に微笑みかけた。オークションに出品したら、70万ドルはするよう
な笑顔だった。僕は一瞬時間をおいて、
「帰ってくれてうれしいわ」
と言った。曲のタイトルだ。彼女はショット・グラスの液体を一息に飲み干し、グラ
スをカウンターに置いた。
「知ってるわ。ワタシがリクエストしたんだもの」
僕は「そう」とだけ言ってシャンパンに口をつけた。
「何飲んでるの?」
彼女は僕をじっと見たままだった。
「シャンパンだよ」
「それは見ればわかるわ。何てシャンパン?」
僕はさっきマスターが説明してくれた名前を必死に思い出そうとしてみた。けれどど
んなに考えても正解は浮かんで来なかった。
「思い出せないんだ、それが」
僕がそう言い終わるのとほとんど同時くらいに彼女が僕の隣に席を移って来た。
「貸して」
彼女は僕のシャンパン・グラスを取り上げ香りを嗅ぎ、ほんの少しその液体を口に含
んだ。
「ルネ・ジャルダン・グラン・クリュ‘98キュベ・ルイ・ルネ。違う?」
そう言ってカウンターの奥のマスターを見た。マスターは静かに頭を下げて「正解で
す」と言う表情をした。
僕はあまりに驚いて、大きく目を開いたまま彼女を見ていた。

「驚いた?」
「驚いたよ。どうしてわかったの?」
「訓練を受けたのよ、子供のころからたくさん。だから、ボルドーとシャンパーニュ
ならほとんど100%正解出来るわ」
「すごいな。でもどうしてそんな訓練を?」
「父がね、ワインの輸入の仕事をしてるの。それでいつでも家にはたぁくさんのワイ
ンがあって、来る日も来る日もそれのティスティングをさせられたってわけ」
「日本語が上手なのは?」
「もう7年になるわ。日本に来て。家出したの」
「どうして家出を?」
彼女はそこでやっと声をあげて笑った。
「質問が多すぎるわ。あなた。」
僕は黙ってしまった。次の言葉が上手く浮かんで来なかったし、第一、次は質問とい
うわけにはいかなかった。
彼女はその空気を察したのか、少し躊躇ったあとで静かに話し始めた。
「…父と私はね、ある時期までは本当にうまくいっていたの。尊敬出来る立派な人だ
し。でもある事をきっかけに私は父と話しをするのも嫌になったの。どんな事件だっ
たかは聞かないでね。私自身もまだその事をうまく理解していないし、整理がつかな
いから」
僕はただ首を縦に振った。それからシャンパンに口をつけ、曲の続きを聞いていた。
もう歌は終わっていて、メロディが流れているだけだった。
「今度は私が質問していいかしら?」
「かまわないよ、もちろん」
「どうして、独りでシャンパンを飲んでるの?」
「誕生日なんだ、今夜は僕の」
「え?」
「誕生日だよ。バースデー」
「それで独りでシャンパン?」
「そう。笑ってもかまわないよ」
「笑ったりしないわ。実はね、父も今日が誕生日なの。すごい偶然ね。ヘレン・メリ
ルを聞いていたのも父が好きだったからなの。出来ればお祝いしてあげたいけど…。
あの人、幾つになったのかしら」
僕はシャンパン・グラスの中身を一息に飲み干してゆっくりとグラスをカウンターに
置いた。
「何か飲もうよ。一緒に。君のお父さんと僕の誕生日祝いに。ご馳走するよ。それか
ら、最後に一つだけ質問があるんだけどいいかな?」
彼女は優しく微笑んだ。
「ええ。いいわよ」
「君の名前は?」
「マルティナ。あなたは?」
「リョウヘイ」
彼女はそこまで聞くと、もうワインリストを見ていた。そしてマスターを呼び、小さ
な声で何かを話していた。やがてマスターは少し困ったような顔をしてセラーへと向
かった。
「何でもご馳走してくれるの?」
「かまわないよ。どのみち高いワインを飲むつもりだったんだ。けど50万とか60万と
かは勘弁してよ」
「大丈夫よ。楽しみにしてて」
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