『 100 の恋、 100 のワイン』第 2 話
時計の針は 17 時 45 分をさしている。
携帯にメール。
―この前の埋め合わせ、させてあげる。 19 時に銀座の BEAMS 前ね―
彼女からだ。先週の木曜日、僕は彼女と食事の約束をしていたが妻の母親が急に倒れてキャンセルせざるを得なかった。母親の容態はすぐに回復し事なきを得たが、彼女は僕をなかなか許してはくれなかった。
―どうしたら、許してくれるんだ?―
そう尋ねたメールの返答が、さっき届いた内容だった。
僕はもう一度時計を見る。ここから銀座までは少なくとも 45 分はかかる。仕事を切り上げ、急な商談が入った事を妻にメールする。それ自体は嘘じゃなかった。ただし、明日の朝一番の商談だった。嘘をつく時、半分は『本当の事』を入れるようにする、そのコツを教えてくれたのは妻だった。
「あなたはね、正直すぎるのよ。全部嘘ででっち上げたら、誰だって嘘じゃないかって思うわ。そういう時は、半分は本当の事を入れておくの、それが上手な嘘のつき方。」そう言って、妻は笑った。
半分だけ入れた『本当の事』が罪悪感を軽減させている気がしたが、そんなものはマヤカシだ。
私鉄と丸の内線を乗り継いで銀座へ。改札を出て BEAMS の前まで走る。 30 歳を過ぎてから、こうやって走るのが辛くなった。 BEAMS の前には彼女、美咲が立っていた。
「遅い。」僕は時計を見る。 18 時 55 分。「 5 分前だ。」美咲が携帯電話を鞄にしまう。「先週の木曜から 1 週間待ったわ。」そういって、彼女は僕の腕を取る。「行きましょ、ずっと会いたかったんだから。」会いたい、という言葉は時々、好きだよを遥かに凌ぐ。
BEAMS 前の小さなビルの 2 階にその店はあった。狭い店内、カウンターとその奥にテーブル席が 2 、 3 。店は肉を焼く匂いと人いきれでごった返していた。美咲が予約の名前を告げ、カウンターの一番奥の席へ案内される。
フレンチで修行を積んだシェフが、銀座で串焼き屋をやっている。豊富なワインと旬の食材、確かそんなコンセプトの店だった。
「ここ、初めて?」美咲が無邪気な笑顔で聞く。「ああ、初めてだ。銀座なんて滅多に来ない。」嘘だった。初めて来たのは、妻とだった。どこかの雑誌で見つけたと言っていた。食事をしながら僕が「こういうとこは不倫向きじゃないか?隠れ家的だし。」と言ったら、「じゃ、不倫相手と来ればいいじゃない。いるでしょ?そんな女の一人や二人。」妻はそう言って笑った。美咲に出会ったのは、その一月後のことだった。
「ね、嘘ついたでしょ?」心臓がドクンと鳴った。「何の事?」「奥さんのお母様が倒れたって。」「嘘じゃないよ。」それは嘘じゃない。「なーんだ。じゃ、何で今ドキッとした顔したの?」僕はワインリストに目を落とした。「ドキッとなんかしてないよ。それより、何飲みたいんだ?」背中を嫌な汗が流れていくのが分った。「あー。話し変えたぁ。怪しいなぁ。おい!怪しいぞ、君。」美咲はそう言って楽しそうに笑った。
ギャルソンが僕らのとこへ来て、何を飲むかを聞いた。美咲は「ビール2つ。」と言った。「いいのか?ビールで。」「喉渇いたんだもん。その後は白ワイン飲みたい。」僕はもう一度ワインリストを開く。「白ワインは何がいいの?」美咲は運ばれてきたビールを僕と自分の前に置き「乾杯。」と小さな声で言うとゴクリと一口飲み、上唇にビールの泡を乗せたまま「シャルドネ以外の白ワイン。」と言った。
僕の妻は、シャルドネが好きだ。美咲とこうなる前、飲みに行った席で僕は彼女にその話をした。それ以来、美咲はシャルドネのワインを飲まなくなった。女の記憶力は恐ろしい。いや、それよりも男の浅はかさが愚かなだけかもしれない。
僕はワインリストを開いたまま、ギャルソンを呼び、コースとワインを注文した。
もしかしたら、この店が初めてじゃないことも美咲は知っているのだろうか。そう思うと、背筋が冷たくなる気がした。 |