『 100 の恋、 100 のワイン』第 3 話
時計の針は15時44分をさしている。
編集者の野上さんが原稿を取って立ち上がる。「先生、お疲れ様です。来月も期待してますよ。」
先生は何も答えない。黙ってソファに座って視線を中空に投げかけている。長く伸びきった髪と、うっすらと生えた無精髭。美しいはずの横顔は完全に憔悴しきっている。
「じゃ、私はこれで。聡くん、先生においしい紅茶入れてあげてね。」
僕は黙ってうなずき野上さんを玄関まで見送る。野上さんの香水の匂いが鼻につく。ドアを開けた後、野上さんはもう一度僕に向かって一礼し部屋の奥に向かって「お疲れ様でーす。」と言った。僕はにっこり笑って彼女を送り出し、部屋のドアに鍵をかける。
胸の奥のほうで、小さいけれど確かな何かが爆発する。そして、緊張。
僕はゆっくりと、殊更ゆっくりと部屋に戻っていく。先生はまだ宙を見つめている。
「先生、紅茶入れますね。いつもみたいにアールグレイ6にダージリン4の割合でいいですか?」僕がそう言いながらキッチンへ向かおうとするのを先生が呼び止める。
「聡、ここへ来て座れ。」
疲れきってはいるものの、いつもと変わらない艶のある野太い声。
僕は「はい。」と小さな声で返事をして先生の隣に腰を下ろす。
「疲れましたか?」
「当たり前だ。二日間、風呂にだって入ってない。」
確かに、先生の髪はいつもよりしっとりとして見えた。それが僕にはなんだか色っぽく見えて仕方なかった。先生は不意に立ち上がった。
「シャワー浴びてくる。」
先生の着替えと下着を脱衣所に用意する。僕の仕事。
「先生、ここに着替え出しておきますね。」
「聡、紅茶じゃなくて、あのワイン出してくれ。」シャワーの音の向こうから先生の声が聞こえる。
「あのワイン?」
「あのワインと言ったら、あのワインだ。」
着替えを脱衣所に置いて、ワイン・セラーに向かう。セラーには200本ものコレクションが並んでいる。「あの、ワインって・・・。」思考をめぐらせる。先生が、今飲みたい一本は何か。僕はおもむろにセラーをあけ、ワインを取り出す。これに違いない。この間、初めて先生のベッドで一緒に寝て先生が話しをしてくれた、あのワイン。
僕は、ワインをテーブルに置き、ブルゴーニュ・グラスを用意する。
先生がシャワーから出てくる。
「どうして、そのワインだとわかった?」
「この間、先生が話してくれたから。」
「二人で寝た、あの夜にか?」意地悪な質問。僕は耳まで赤くなる。
「ピノ・ノワールのうまい飲み方、知ってるか?」
僕は首を横に振る。先生が「教えてやる。」と言って鮮やかな手つきでワインを開けグラスに注ぐ。先生が僕のそばに来る。「こうするんだ。」そう言うとグラスの中の深紅の液体を口に含み、僕を引き寄せ口づける。先生の口の中で温められたワインが僕の口の中になだれ込む。腰の奥で何かが弾ける。意識が遠くなる。先生の唇が離れる。二人の口の脇にほんのりと赤い雫が、ついている。
「美味いか?」そう聞かれて僕は黙ったまま頷く。
「先生、僕、あの人の香水、好きじゃない。」
「野上のか?俺も嫌いだ。」
先生がグラスとボトルを持って寝室に向かう。僕は黙ってついて行く。
いけないことだと、知っていながら。
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