『100の恋、100のワイン』 第5話
時計の針は17時35分をさしている。
アリタリア航空AZ7788便は天候不良のため約30分ほど遅れて成田空港に到着した。久しぶりの10時間を越えるフライトに身体が悲鳴を上げる。到着後、すぐに席を立つ周りの人間を尻目に俺はシートに深く座ったまま目を閉じている。
「Stai Bene?(大丈夫?)」
人懐っこい笑顔でイタリア人CAが話しかけてくる。
「Si.Va Bene.Grazie.(大丈夫、ありがとう。)」
そう答えると俺はゆっくりと席を立つ。8ヶ月ぶりの日本。成田空港の中は旅客たちの人いきれと、梅雨の蒸し暑さで不快以外の何ものでもなかった。税関をパスしてロビーに出ると公衆電話を見つけ、ポケットからメモを出しその番号をダイヤルする。
「もしもし?」
低い女の声。体温が上がる。
「奈緒?俺。今、成田に着いたんだ。」
「あれ?今日だっけ。明日だと思ってた。」
「今日は会えるか?」
「今日は駄目よ。仕事だもん。明日、19時にあの店、予約取ったわ。それでいいでしょ?」
「分かった。じゃ、明日な。」
受話器を戻して公衆電話から離れる。やれやれ。付き合いだして5年、うち遠距離になってから2年。奈緒は冷たくなった。いや、無理もない。俺は自分の勝手な夢のために単身イタリアへ渡りワイナリーを回り書き物ばかりしているのだ。
成田エクスプレスを使って都内へ、六本木まで移動してザ・リッツカールトン東京にチェック・インする。51階。東京タワーがやけに綺麗に見える。実家が長崎の俺は東京に来るたびホテル暮らしを強いられる。奈緒は会社の同僚とルーム・シェアをして暮らしているからだ。今回は奈緒がどうしてもというのでリッツカールトンに部屋を取った。ま、取ったのは奈緒だが。
部屋に入ると荷物を適当にほどいてバスルームへ向かう。長いフライトは身体の芯を凍結させている。ゆったりとしたバスタブにたっぷりと湯をはり身体の芯をほぐしていく。不意に、部屋の呼び鈴が鳴る。無視しようと思う。疲れているのだ。それでも呼び鈴は鳴り続ける。仕方なくバスタオルを巻いて部屋を横切り、ドアを開ける。
「あら、ずいぶんな格好でお出迎えね。」
奈緒だ。女の考えてることは分からない。
「仕事じゃなかったのか?」
「会いたかったんだもん。」
キス。舌が差し込まれて来る。股間が熱くなる。
「もう!気が早いんだから。こっちは後でね。お風呂、済ませてらっしゃい。」
俺はもう一度バスルームへ向かいバスタブに身体を沈める。奈緒が入ってくる。
「ね、ワイン飲もうよ。せっかくだから。いいでしょ?選んで。」
そういってルーム・サービスのワインリストを俺に渡す。
「それなら、グラスだけ借りてくれ。鞄に入ってるんだ、ワイン。」
奈緒が嬉しそうに出て行く。電話でグラスを貸してくれるように頼んでいる。俺は髪と身体を洗ってバスルームを出る。もうグラスが届けられている。
「これでいいの?これしか入ってなかったけど。」
「ああ。それでいい。」
「雨の降る夜は赤ワインを飲んだほうがいい。って言うんでしょ?」
「よく覚えてるな。」
「いっつもおんなじこと言うんだもん。ね、今回はなんでこんな時期に帰ってきたの?夏休みでもよかったでしょ?」
俺はワインを開けながら答える。
「明後日が七夕だからだ。」
奈緒が大笑いする。
「あははは。馬鹿みたい。そんなにロマチストだった?…でも、嬉しい。」
ワインを注ぐ。
深紫の液体は夜を飲み込むようにグラスの中で静かに踊る。知らない国の知らない名前の花を咲かせて。
「ワインの薀蓄、語らないの?今夜は。」
「それより大事な話がある。」
「なに?急に。」
「織姫と彦星みたいに、年に1度だけこんな風に会うのはもうやめにしたい。俺は、奈緒をイタリアへ連れて戻る。仕事はやめろ。一緒に、イタリアへ来てくれ。」
奈緒は黙っていた。グラスの中の液体を眺めていた。俺はずっと奈緒を見たままだった。
「最初にイタリアへ行くときにそう言って欲しかったな。私。でも、嬉しい。イタリア語、話せるようになるかな?ちゃんと。」
「大丈夫だ、俺がついてる。」
「今日はずいぶんロマンチックで大胆なのね。」
「東京タワーが綺麗なせいだ。」
「ふふ。リッツカールトンにして正解だった。」
俺たちはグラスを置いて、ゆっくりとキスをした。逢えなかった時間を埋めるように。
きっと、長い時間をかけて抱き合った後のほうがこのワインの本当の姿が見えてくるはずだ。
そのときには、咲いているその花が、名前の知らない花ではなくなっているだろう。
『その花の名を奪っても、甘い香りが消えることはない』
シェークスピアにそう言わせた、薔薇という名の花が。
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