『100の恋、100のワイン』 第7話
あの夕立に遭わなければ、僕らは今でも幼馴染のままだったかもしれない。
待ち合わせの時間に15分遅れてきたのぞみは、意外にも浴衣姿だった。
「どないしたん?浴衣なんか。」
のぞみは照れくさそうに笑った。
「ええやんか、夏なんやし浴衣くらい。おかしい?」
僕はなんと答えたものか分からなくて、つい黙ってしまった。
「なぁ、おかしい?おかしいの?浴衣。嫌い?」
のぞみは僕の目を見たまま執拗に問いただしてきた。
「いや、似合てるよ。」
僕は小さな声でそれだけ言うのが精一杯だった。
「なんて言うたん?なぁ?なぁて。」
「せやから、似合ってるって、言うたんやんか!」
僕が思わずそう大きな声で言うと、のぞみは一瞬キョトンとした顔を見せたあと不意に笑った。
「ほんまに?うれしいわぁ。よかった、着てきて。いこ。」
のぞみに促されるまま僕らは歩き出した。
夏の京都の暑さは、高い湿度と盆地特有の気候でそれこそ蒸し風呂のようだった。
のぞみが「散歩したい。」と言ってきたので僕らは哲学の道で待ち合わせして、蹴上浄水、智恩院、円山公園と歩いて祇園へ抜けるそのコースを歩き始めた。
15時を回ったとはいえ、気温はまだ高く直射日光を避けるため青々と葉をつけた桜の木の下を選んで僕らは並んで歩いた。
「のぞみ、何で急に散歩なんかしたなったん?」
のぞみはそれには答えず、こう言った。
「なぁ、亮ちゃん。うちな、彼氏と別れたねん。」
僕は一瞬耳を疑った。のぞみと彼氏とは、確かひと月ほど前から付き合い始めたばかりだったのだ。
「なんでや?付き合いだしんたん最近とちゃうんか?」
のぞみは僕の質問には答えずに、
「桜の咲いてない哲学の道もええもんやなぁ。風情があるわ。」
とだけ言った。僕はそれ以上何も聞くことが出来ずに彼女の隣を黙ったまま歩いた。
天候が怪しくなり始めたのは、蹴上浄水を過ぎて、智恩院の手前に差し掛かった頃だった。僕はいやな予感がし始めていたので足を速めたが、のぞみはそれまでのペースを変えようとはしなかった。
「のぞみ、はよ歩かな雨降ってくんで!」
僕がそう言っても、のぞみは急いだりはしなかった。慣れてない浴衣のせいで歩きづらかったのかもしれない。僕がのぞみのところまで戻って、その手を引こうとしたとき、大きな雷鳴とともに雨は急に降り始めた。僕はのぞみの手を引っ張って駆け出した。
「ちょっとだけ走れるか?智恩院さんの屋根の下までいこ!」
僕がそういうと望みはこっくりと頷き、一緒になって駆け出した。
智恩院の階段を二人で駆け上がり、本堂の前で履物を脱ぎ、外の廊下を歩いて裏側に回った。その頃には、雨はかなり激しく降り始めていた。
「すごい降ってきたなぁ。のぞみ、濡れてないか?」
僕が振り返ると、のぞみは膝を抱えて座り込んでいた。一瞬泣いてるようにも見えなくなかったが気のせいかもしれない。僕はゆっくりとその隣に座った。
雷鳴が少しずつ近づいてくるのが分かる。ゴロゴロ。ピシャ。ゴロゴロ。ピシャ!
次の瞬間、二つの音が重なったかと思うと、目の前の大きな木に雷が落ちた。
「キャ!!」
そう言ってのぞみが僕に抱きつく。目の奥に残る残光と、強い雨音、のぞみの着る浴衣の匂い、のぞみ自身の肌の湿った香り、様々な要素がいっぺんに僕に襲い掛かるような錯覚を起こす。
頭が真っ白になる。
「亮ちゃん、あんなぁ、うち、あの人と一緒にいてる間じゅう亮ちゃんのこと考えててん。」
その声はあまりに小さくて、気をつけていなければ聞き逃してしまいそうなほどだった。
「ずっと、ずっとずっと亮ちゃんの事ばっかりやねん。亮ちゃんやったら、こんな時手ぇ引いてくれるやろなぁ、亮ちゃんやったら一緒に泣いてくれるやろなぁ、横に黙って座ってくれるやろなぁ、って。どんなにあの人が優しい事言うてくれはっても、うちの心の中は亮ちゃんのことばっかりやねん。うち、やっとそのことに気ぃついたん。せやから、あの人とは別れたん。」
僕の肩に額を乗せたままでのぞみはその話をした。
彼女の身体が小刻みに震えていて、僕の胸の奥のざわめきは自分ではもう抑えつけようがなかった。
「亮ちゃん、うちのこと、嫌い?」
そう言って、のぞみは僕の目を覗き込んだ。
雷鳴と雨音が遠のいていく。
浴衣の匂いと彼女の肌の匂いが交じり合って、懐かしい優しい匂いに変わる。
ゆっくりと、のぞみを見返す。
「嫌いじゃない。」
「だけ?」
「え?」
「嫌いやないっていうだけ?ほんまは?」
そのあとに僕が言った大切な一言は雷鳴にかき消されて言った僕自身の耳には届かなかった。
でも、のぞみは嬉しそうに笑ってこういった。
「うちも。」
20年近くも幼馴染だった僕らは、その日から恋人同士になった。
夕立と、雷鳴と、浴衣の匂いが僕にとって初めてのキスの思い出になった。 |