| 『100の恋、100のワイン』 第9話
「ショパンが好きだから…。」手紙の最後には、そう書いてあった。
僕は手紙をそっと封筒にしまうとダイニング・テーブルの上に置き、椅子を一つ持ち出してベランダへと出る。
空はどんよりと曇っていて今にも雨が振りだしそうだった。
不思議と涙は出なかった。
このことは、分かっていたことなのだ。ずっと前から。
彼女がピアノの勉強のためにオーストリアへ行きたいといったとき、僕は止めなかった。彼女にはそれが必要なことだったし、僕は応援をしていてあげたかった。もちろん、そこには別れの予感があった。遠く離れて暮らすことが二人に別離をもたらすことは『嫌な予感』みたいな形で胸の奥にあった。それでも僕は彼女を送り出した。
最初の数ヶ月、彼女はなれないウィーンでの暮らしで戸惑うことと、僕に逢えない寂しさを手紙にしたためては送ってきた。それはほぼ、週に3回送られてきた。僕だって逢いたかった。逢いたくて逢いたくて送られて来る手紙を読むたび涙は頬を伝った。それでも返信には必ず、「こっちは元気でやっています。ピアノ、楽しい?上手になった君のピアノを聴くのがとても楽しみです。」と、書いた。
それが、いけなかったのかもしれない。
4ヶ月目を過ぎた頃からだろうか。手紙は週に一度になり、2週間に一度になり、果ては月に一度の手紙すら危うくなった。僕から手紙を書けばよかったのかもしれない。「今度の夏休みには帰ってきますか?」「クリスマスには会えるかな?」たったそれだけの手紙でよかったのだ。それだけでも彼女の心は違ったかもしれないのだ。でも、僕はそうしなかった。
夢のない僕は、特にやりたいこともないまま就職した。彼女はピアニストになる夢を追い続けた。嫉妬だったかもしれない。彼女の自由と、情熱がうらやましかった。いつしか僕は彼女を羨望のまなざしで見るようになっていた。
今日、9月1日に2ヶ月ぶりに彼女から手紙が来た。
好きな人が出来たこと。彼もまた、ピアニストだということ。日本にはしばらくは帰らないのだということ。別れて欲しいということ。
僕は、彼女の細い指を思い出していた。
僕は、彼女の白い肌を思い出していた。
僕は、彼女の長い髪を思い出していた。
でも、僕には彼女のピアノを思い出すことは出来なかった。
どんなに考えても、どんなに思い出そうとしてもメロディのひとつも浮かんでこなかった。
僕は椅子から立ち上がり、手紙に同封されていたCD−Rをプレーヤーの中にセットして再生のボタンを押した。
そこには、彼女のピアノが録音されていた。全部で3曲。『夜想曲 第20番』『雨だれのプレリュード』『別れの曲』僕は静かに部屋の中に流れているピアノの音に耳を傾けた。これが彼女のピアノなのか僕には確信がもてなかった。こんなに上手だったか。こんなに心を打ったか。
灰色の重い空からはポツリポツリと雨が降り始めていた。
僕はもう一度手紙を出して、その最後の一行に目を向けた。
「最近録音したものです。あなたの、いえ、あなたと私のために。あなたも私もショパンが好きだから…。」
そうじゃないんだ。
僕は、君に気に入られようとして、ショパンを好きだと言ったんだ。
僕は、ピアノなんか聴かない。
僕は、ショパンなんか聴かない。
僕はいつだって、君の事だけを見ていたんだ。
やっと、涙が出始めた。
降り出した雨のせいでも、『別れの曲』のせいでもなく。
君を失った悲しみのために。 |