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ラ・ルーチェ マネージャー 小西優司
2008,09,01公開
『100の恋、100のワイン』 第9話

「ショパンが好きだから…。」手紙の最後には、そう書いてあった。

僕は手紙をそっと封筒にしまうとダイニング・テーブルの上に置き、椅子を一つ持ち出してベランダへと出る。
空はどんよりと曇っていて今にも雨が振りだしそうだった。

不思議と涙は出なかった。
このことは、分かっていたことなのだ。ずっと前から。
彼女がピアノの勉強のためにオーストリアへ行きたいといったとき、僕は止めなかった。彼女にはそれが必要なことだったし、僕は応援をしていてあげたかった。もちろん、そこには別れの予感があった。遠く離れて暮らすことが二人に別離をもたらすことは『嫌な予感』みたいな形で胸の奥にあった。それでも僕は彼女を送り出した。
最初の数ヶ月、彼女はなれないウィーンでの暮らしで戸惑うことと、僕に逢えない寂しさを手紙にしたためては送ってきた。それはほぼ、週に3回送られてきた。僕だって逢いたかった。逢いたくて逢いたくて送られて来る手紙を読むたび涙は頬を伝った。それでも返信には必ず、「こっちは元気でやっています。ピアノ、楽しい?上手になった君のピアノを聴くのがとても楽しみです。」と、書いた。
それが、いけなかったのかもしれない。

4ヶ月目を過ぎた頃からだろうか。手紙は週に一度になり、2週間に一度になり、果ては月に一度の手紙すら危うくなった。僕から手紙を書けばよかったのかもしれない。「今度の夏休みには帰ってきますか?」「クリスマスには会えるかな?」たったそれだけの手紙でよかったのだ。それだけでも彼女の心は違ったかもしれないのだ。でも、僕はそうしなかった。

夢のない僕は、特にやりたいこともないまま就職した。彼女はピアニストになる夢を追い続けた。嫉妬だったかもしれない。彼女の自由と、情熱がうらやましかった。いつしか僕は彼女を羨望のまなざしで見るようになっていた。
今日、9月1日に2ヶ月ぶりに彼女から手紙が来た。
好きな人が出来たこと。彼もまた、ピアニストだということ。日本にはしばらくは帰らないのだということ。別れて欲しいということ。

僕は、彼女の細い指を思い出していた。
僕は、彼女の白い肌を思い出していた。
僕は、彼女の長い髪を思い出していた。

でも、僕には彼女のピアノを思い出すことは出来なかった。
どんなに考えても、どんなに思い出そうとしてもメロディのひとつも浮かんでこなかった。
僕は椅子から立ち上がり、手紙に同封されていたCD−Rをプレーヤーの中にセットして再生のボタンを押した。
そこには、彼女のピアノが録音されていた。全部で3曲。『夜想曲 第20番』『雨だれのプレリュード』『別れの曲』僕は静かに部屋の中に流れているピアノの音に耳を傾けた。これが彼女のピアノなのか僕には確信がもてなかった。こんなに上手だったか。こんなに心を打ったか。
灰色の重い空からはポツリポツリと雨が降り始めていた。
僕はもう一度手紙を出して、その最後の一行に目を向けた。

「最近録音したものです。あなたの、いえ、あなたと私のために。あなたも私もショパンが好きだから…。」

そうじゃないんだ。
僕は、君に気に入られようとして、ショパンを好きだと言ったんだ。
僕は、ピアノなんか聴かない。
僕は、ショパンなんか聴かない。

僕はいつだって、君の事だけを見ていたんだ。

やっと、涙が出始めた。
降り出した雨のせいでも、『別れの曲』のせいでもなく。
君を失った悲しみのために。

ワイン ワインの名は『パルメ・シャルドネ04 トリンケロ  ピエモンテ/イタリア』
薫り高く、繊細なピエモンテのシャルドネ。芳醇な味わいの中に儚く、どこか切ない甘酸っぱさを併せ持つ。口の中に入れるとふわりと溶けてなくなるような刹那的な幻想すら抱かせる、秀逸な白ワイン。上品でいて印象的なミネラルは、かすかに涙の味がする。
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小西優司 コニシマサモリ 1977年6月26日生 蟹座 A型
La Luce マネージャー
演劇集団アクト青山 劇派・月 主宰・俳優・演出家・脚本家
表現する事を生業とし、ワインの様々な味や歴史、料理との相性をお客様に伝えていくべくレストランでの仕事をする傍ら、当店HPにワインを題材にした小説を3年に渡って連載。『太陽の匂い、月の香り』『愛しのマルティナ』 この8月1日から、La Luceでの勤務はディナー・タイムのみ。 一方で、俳優として舞台にも立ち表現の場を求めつづける。主宰として劇団を切り盛りしながら演出、脚本など多岐に渡って活躍。代表作に『俳優は去らず、死すのみ』『桜の園』『かもめ』(A.チェーホフ)『牛山ホテル』『運を主義にまかす男』(岸田國士)『退屈な時間』『華々しき一族』(森本薫)などがある。 劇団のブログにも、ワインエッセイ、小説、コラム、日記などを執筆。 http://ameblo.jp/act-aoyama/
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