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ラ・ルーチェ マネージャー 小西優司

1.枝垂れ桜 2006/07/01(Thu) 12:00  掲載
急勾配の坂道を上りきると、左手に小さな枝垂れ桜が植えられている。そこだけが石垣に囲まれて、少し神聖な場所のように見える。

枝垂れ桜は坂道の方へと枝を垂れ、ひっそりと、また春が来るのを待ち焦がれているみたいに僕には思える。 
桜の頃を過ぎたばかりの今は、やや淋しげに葉を付け柔らかな枝を初夏の風にさらしている。
 
その小さな枝垂れ桜の真向かいに千佳子の住むアパートがある。『枝垂荘』と書かれた古い木造のアパートの2階に彼女は住んでいる。
天気が穏やかなせいか、彼女の部屋の窓は開け放たれ、白いレースのカーテンが風に揺らめいている。僕は荷物を右手から左手に持ち替え、ふーっ、と息を一つ吐く。

この坂道を上り下りするようになって、もう一年余りが経つ。最初の頃、これを上るだけで大汗をかいて息を切らしていた僕に、千佳子は「おじさんね」と言って嬉しそうに笑っていた。僕は「そのうち慣れるよ」と言ってムスッとした。そんな時、千佳子は僕の手を取って、「さあ!」と僕を引っ張って坂道を上った。彼女の柔らかな手が、強く僕を引っ張りあげるのが不思議な気がしていた。
それでも、一年という月日は僕を少しだけ逞しくし、今ではそれほど辛くなくアパートまで辿り着ける。時々、それが少しだけ寂しい気もするけれど。

去り行く春と、訪れる夏が仲良くワルツを踊っているような、温かで陽気な風が僕の汗ばんだ肌に触れている。
カーディガンを持っている方の手で額の汗を拭い、アパートの入口をくぐる。中は薄暗くひんやりとしていて気持ちがいい。僕は一旦荷物を床に置いて、ジーンズの左ポケットからハンカチを出し、汗を拭く。汗だくでドアをノックしたら、また「おじさんね」と言われてしまいそうだから。
一息つくと、荷物を持ち、2階へと上る。古い木造アパートの階段の匂いが辺りを包んでいる。
僕はこの匂いが好きだ。彼女を含む大切な事柄のいくつかの中でも特に好きなものの一つだと思う。優しい懐かしい、そしてどこか切ない木の匂い。
階段の狭い踊り場に、小さな窓が付いていて、あの桜の木が見える。きっとこのアパートの持ち主は、この小窓から見える景色を眺めて「枝垂荘」と名付けたに違いない。僕にはそんな気がした。

キシキシと小さな音を立てる廊下を歩き、彼女の部屋の前で止まる。
206号と書かれた下に、小さく『桐生』と書いた白い紙が貼られている。
いつものように2度ノックをし、少しおいてもう1度ノックする。
すぐにトントントンと彼女の足音がドアの方へと近付いて来るのが分かる。

幸せというものに、もしも音が有るのだとしたら、この音だろうと僕は確信する。

やがて、少しだけドアが開き彼女が顔を覗かせる。僕は何も言わずに彼女を見る。彼女はドアを大きく開けて「お帰りなさい」という。
「ただいま。寂しくなかった?」
「平気よ。早かったのね」
「うん。電車の乗り継ぎが上手くいったんだよ」
「電話してから来ると思ってたのよ」
「しようとは思ったよ。でも両手はこの通り、荷物でいっぱいさ」
「おかしな人」
「そうかな?中身、見なくていいのかい?」
千佳子は僕の鞄をごそごそと物色を始め、歓声をあげる。
「あ!このワイン!ねぇ、どうしたの?3本もあるわ!」
「この間、君が今度の連休は毎日このワインを飲みたいって言ってたじゃないか。随分探したんだよ。酒屋には売ってなくてさ、知り合いのレストランに頼んで、譲って貰ったんだ。来る途中で電話したら、その事まで話してしまいそうだったから。内緒の方が楽しいだろ?」
千佳子は嬉しそうに、へへへと笑ってボトルをしげしげと眺め、サイドボードの上に綺麗に並べた。
「素敵!」
「ワイン?」
「ワインとあなた」
「それはよかった」
「また!」
「ん?」
「『それはよかった。』口癖よ、あなたの。直す約束じゃなかったかしら?」
「そうだったね。忘れていたよ」
ふと気付くと、小さな音で音楽が流れている。MDデッキのボリュームを上げる。かかっていたのは、山崎まさよしの『Home』だった。
「好きだっけ?まさよし」
「え?うん」
「今まで言わなかったよね、一度も」
「うーん。だってあなたが先に好きだって言ったから」
「そうだった?」
「覚えてないの?一昨年の大学リーグの最終節で、このPKを決めたら優勝っていう大事なシュートをあなたが外して、逆転で優勝を逃した日、みんながあなたを励まそうと合コンをセッティングして、その2次会でカラオケに行ったでしょ。その時、私の友達が『好きな歌手とか歌ありますぅ?』て聞いたら、あなたベロベロに酔って『山崎まさよしのベンジャミン!』て叫んだの」
「…」
「みんな『ナニソレ?』て顔してたわ。私はその歌好きだし知ってたけど、そんな場面で言えないでしょ?」
「どうして?」
「あなたに気があるみたいに思われたら恥ずかしいじゃない!」
「だけど、今はこうして付き合ってるじゃないか」
「それは…。もう!嫌い!」
  千佳子はツカツカとMDデッキに近寄り、MDを取り出す。それを器用にケースにしまい、次のMDを探している。
僕はそんな千佳子をじっと眺めている。愛おしい、という気持ちで胸がいっぱいになる。
「何…みてるのよ」
「いや。かわいいなぁと思ってさ」
「ごまかさないでよ」
「ほんとだよ。とてもかわいい。すごく愛しい」
「それはよかった。…あっ!」
「うつった?」
「そんなんじゃないもん!」
そう言って僕らは笑った。
 
空は少しずつ夕焼けに染まっていて、綺麗だった。
僕らは二人でMDを選び、ベッドに寝転んでそれを聞いた。MDデッキからは『やわらかい月』が流れていた。
部屋は春の匂いでいっぱいだった。千佳子の長い髪が、僕の胸の上へ柔らかく流れ落ちて、僕に月を流れる河を思わせた。彼女の湿った寝息が僕の脇腹にあたってくすぐったかった。強く彼女を抱きしめたい衝動に駆られたが、やめておいた。眠りはあまりに静かで、ささやかなものに見えたからだ。
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