蝋燭の灯の向こう側に、見覚えのある石畳の町並みが見える。私はどこにいるのだろう。
ほんの数秒前まで私が目にしていた景色はどこに消えてしまったのだろう。 そんな私の思考を嘲笑うかのように、眼前の景色は刻々と移り行く。
古い昔に立てられた荘厳な教会、美しい芝生の庭。小さな紫色の花たち。
まるで著名な画家によって描かれた精密な風景画のように、その景色はどこまでも美しく、完成されている。私は何を見ているのか。この胸を満たす、むせぶような甘い香りはなんだろうか?
蝋燭の灯が静かに揺らめいている。私はやっと覚醒の真ん中に辿り着ける。 小さな部屋、見慣れた白い皮ばりのソファ、ここは私の部屋なのだ。ようやく私は右手に持った大きなワイングラスの事を思い出す。そう、私は今、一本のワインと向かい合っている。 ”Flaccianello Della Pieve'00” その至極の一杯がもたらす甘い陶酔のひとときを私は楽しんでいたのだ。 そこには太陽の匂いがはっきりと存在し、百花繚乱、咲き乱れる花の香りがした。
私はもう一度その深い赤紫色の美しい液体を口に含み、目を閉じる。 そこには、悠久のときを越え流れる河のせせらぎが聞こえ、柔らかな陽射しをその水面に映しだす。河の両岸には色とりどりの花が咲き乱れ、その香りは私の胸から鼻孔までを一杯に満たす。街角に開かれた市場で賑やかに売られている様々な果実。パスティッチェリアからもれる甘い誘惑の香り。刹那、私の目の前を横切る真紅のアルファロメオ。
そこで私はようやくここがフィレンツェだと気付く。 ”Firenze。” トスカーナ最大の都市。 花の都。 ルネッサンスを生んだ芸術の街。 この一本の赤ワインは私にフィレンツェを思い出させる。古い伝統と、それを重んじながらも新しい“スタイル“を生み出す芸術復興の革新のいぶきを抱く街。
私はその雄弁な語りかけに驚愕し、感動する。
同時にこのこころの震えを誰かに伝え、共有したいと願う。
ソムリエではない私は、一人の表現者として様々なワインの持つそれぞれの物語を私なりの方法で伝え、共に飲 み、語らい、そこにまた新たな物語を作りたい、そう願う。
グラスに新しい一杯を注ぎ足して、ゆっくりと口に含み、その甘美な陶酔をつかの間の時間味わった後で、私はそっとグラスを遠ざけ、ペンを取り、原稿用紙へと向かう。
新しい物語に出会うために。
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