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2008,10,01公開 |
『100の恋、100のワイン』 第10話
雨の降る日が続いている。
僕は部屋の中で一人、もう何日も膝を抱えたままで暮らしている。彼女がどうして出て行ったのか、僕が彼女に何を言ったのか、今となってはきちんと思い出すことが出来ない。
頭の奥がずきずきと痛む。
僕はゆっくりと立ち上がり、意識を正常にまとめようと努力する。洗面所まではわずかに2mほどなのだ。足の運びを意識し、目をはっきりと前に向ける。これが夢でなく現実なのだということが残酷な映画の残酷な場面のように僕の脳にこれでもかという風に刻み込まれる。
ダイニングテーブルの上には、抜栓され、一杯ずつだけ注がれた赤ワインのビンが静物画のように置かれている。そのワインの甘くて芳醇な香りが部屋の中に広がっている。
僕は顔を洗うのを諦めて、ダイニングテーブルに向かう。いすに腰掛け、グラスの中のワインにそっと鼻を近づける。
甘い葡萄の香り、レーズンのような香り、ほんのりとした樽の香り。
そうだ、僕と彼女は喧嘩をしたんだ。
◇
僕がこのワインを以前に飲んだことがある話をした。
それはイタリアに住んでいるときのことだった。大勢の友人と、僕の誕生日を祝った。そして今日は彼女の誕生日だった。僕は彼女にこのワインを贈った。
「ねぇ、どうしてあなたが誕生日にもらったワインを私にプレゼントするの?」
「美味しかったからさ。それじゃいけない?」
「いけないとかそういう問題じゃないの。私の誕生日なのよ?」
「分かってるよ、それは。なにがいけないんだろう?」
「いいわ、もう。私、飲まないから。」
「どうして?」
「どうして、『どうして』かを考えてくれないの?私、あなたのそういうところが分からないの。」
僕は黙るしかなかった。今までにも、僕が良かれと思ってしたことが彼女を傷つけてしまうことはよくあった。そのたびに僕は言葉を失い、『どうしてか』を考えようとはしなかった。
しばらくすると、彼女はその沈黙に耐えかねるように席を立った。
「帰るね。」
僕には彼女にかける言葉が見当たらなかった。彼女が席を立って、玄関へ向かいドアが閉まるまで僕はそのままの姿勢で何一つ考えることが出来ず、何一つ言葉を発しもしなかった。
ドアが閉められ、外から鍵がかけられる。部屋の中は、沈黙とワインの甘酸っぱい香りでいっぱいになる。『どうしてか』というのはなんだろうか?僕はグラスの中のワインをひとくち口に含む。柔らかな酸と、芳醇なカシスを思わせる甘みが口の中いっぱいに広がる。あの日、一緒に飲んだ仲間や交わした言葉、思い出されてくるのは全て僕を中心とした世界の思い出ばかりだった。
僕はグラスをテーブルに置き、ゆっくりとした足取りで窓辺へと移動した。外は雨が降り始めたようだ。
◇
地面を打つ雨音が段々に大きくなるような気がしていた。
僕の心の中にあった思いもそれとともに大きくなっていくようだった。
僕は決して自分のことばかりを考えていたわけではなかった、言い訳かもしれないけど。彼女とすごす時間の楽しさを思わないわけではなかった。でも、その想像の中心にいるのは、いつだって僕だった。僕は彼女を思いの中心にすえることが出来なかった。彼女は時々その事を怒った。『どうしてか』とはそういうことなのだ。
僕は馬鹿だった。はるか昔から多くの人が歌ってきたように『なくしてはじめて大切なことに気が付く』なんて、愚かなことだと思ってきた。でも、今の僕はその『おろかなこと』の中心にいるのだ。
僕はテーブルの上を片付け始めた。ワインのコルクを挿しなおし冷蔵庫にしまった。洗面所で顔を洗い、寝室に向かった。充電器につながれた携帯電話が着信を知らせる点滅をしていた。
彼女からのメールだった。
―急に帰ったりしてごめんなさい。また連絡します。−
メールにはそう書かれてあった。
悪いのは僕なんだ。
僕は彼女の電話番号を探して電話をかけた。2コールとしないうちに彼女が電話に出る。
「もしもし?」
「もしもし、俺だけど。」
「うん。」
「悪かった。もっと君だけの誕生日をしたかったのに。できなくて。」
「いいの。ごめんなさい、私こそ。」
「もう一度、チャンスをくれないか?もう一度、誕生日会しないか?」
「今から?」
「そう、今から。」
「ワインはどうするの?」
「買いに行けばいいさ、二人で。」
「…。」
「ゆかり?」
「…。」
「ゆかり?」
「聞いてるよ。」
「だめかな?」
「最初から…そうして欲しかった。」
僕らは待ち合わせ場所と時間を決めて電話を切った。
窓を開けると、部屋の中には雨の匂いが飛び込んできた。 |
ワインの名は「レ・ペルゴレトルテ‘96 モンテヴェルティーネ トスカーナ/イタリア」
サンジョヴェーゼの切れのいい酸味をバリック熟成によって限りなく穏やかで、やさしい味わいにしたスーパータスカン。しかし、その奥には静かにだが確かに情熱が息づき飲むものを圧倒する。雨の日が続く夜にそっとグラスの中で踊る、そんなワイン。
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小西優司 コニシマサモリ 1977年6月26日生 蟹座 A型
La Luce マネージャー
演劇集団アクト青山 劇派・月 主宰・俳優・演出家・脚本家
表現する事を生業とし、ワインの様々な味や歴史、料理との相性をお客様に伝えていくべくレストランでの仕事をする傍ら、当店HPにワインを題材にした小説を3年に渡って連載。『太陽の匂い、月の香り』『愛しのマルティナ』 この8月1日から、La Luceでの勤務はディナー・タイムのみ。 一方で、俳優として舞台にも立ち表現の場を求めつづける。主宰として劇団を切り盛りしながら演出、脚本など多岐に渡って活躍。代表作に『俳優は去らず、死すのみ』『桜の園』『かもめ』(A.チェーホフ)『牛山ホテル』『運を主義にまかす男』(岸田國士)『退屈な時間』『華々しき一族』(森本薫)などがある。 劇団のブログにも、ワインエッセイ、小説、コラム、日記などを執筆。 http://ameblo.jp/act-aoyama/
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